「日本へ帰りたくない」症候群

トランス・パシフィック・ベンチャーズ社社長 安藤茂彌氏


2 年程前に、シリコンバレーに駐在した人、当地の大学院で修士号・博士号を取得した人の多くが日本に帰らない時代があった。こうした風潮もインターネットバ ブルの崩壊と共に影をひそめた。当時、飛ぶ鳥を落とす勢いだったベンチャーに就職をした人が、倒産、人員削減等で必ずしもハッピーな生活を送れなかったこ とが、それとなく伝わったのだろう。では、今日本に帰る人が喜び勇んで帰るかといえば、決してそうではない。何故だろう。

 ネットスケープ、ヤフーが誕生した94年を「インターネット元年」とすれば、来年は「インターネット10周年」に当たる。その間日本は、いや世界は、イ ンターネットに振り回されつづけた。インターネットで全て出来ると高らかに歌ったドットコムの大半は既に死んだ。ソフトウェアをサービスとして提供する ASPで生き残っている業者は少ない。インターネット関連株に投資をして一夜にして大金持ちになった人もいるが、株券が紙切れ同然になり大損をした投資家 も多い。

 この10年間のIT革命で何が残ったのだろうか。残ったのはメールとウェブである。メールは完全に定着した。経済界で働く人でメールアドレスを持ってい ない人はいなくなった。名刺にアドレスを記載するのも一般化した。また、どんな小さい企業でも自社のウェブサイトを持つようになった。ウェブサイトを持つ ことはその会社の存在を世に知らしめる不可欠な手段となった。では日本企業の全員がメールとウェブに馴染んだのか。

 日本に行っていろいろな方々と名刺交換すると、上層役員の名刺にはアドレスもウェブも記載していない人が多い。外部者からいきなりメールを貰いたくない のだろう。またそれに返事を書く時間もないのだろう。これに対し、部長以下の名刺には必ずアドレスが印刷されている。コミュニケーションは部長以下でやっ てくれと言うメッセージである。その企業がボトムアップの意思決定を行っていることを示している。

 大企業のトップになると殺人的なスケジュールをこなさなければならなくなる。30分刻みでアポ・打ち合わせが入っている。空いた時間に社内書類に目を通 して決済しなければならない。夜は夜で5時半頃からパーティーに出席することも多いし、その後に宴席が入ってくる。週末はと言うと、最低、土日どちらかで ゴルフが入っているし、社内外の関係者の結婚式への出席も多い。こうした過密スケジュールの合間に、突然通夜・葬儀が入ってくる。

 要するに、インターネットが出現して10年経っても、インターネット普及前と普及後とで経営者トップの行動様式は変わっていないのである。バーチャルな コミュニケーション技術がいくら発達しても、リアルな世界では相変わらずスキンシップをベースにしたコミュニケーションが根強く残っている。これをこなし た上で、更にメールの返事を自分で書けといわれても、とても時間が無い。行動様式を変えない限り、バーチャルなコミュニケーションが入り込む余地は無い。

 アメリカでも、大企業のトップは多忙を極める。むしろ、日本以上の忙しさである。通常、会社に遅くまで残って仕事をしているのはトップである。下々は早 く帰る。経営上層部は給料を多く貰っているのだから残業当たり前と下々は見ている。地位が上がれば上がるほど会社に残り、地位が下に行けば行くほど帰宅は 早い。日本とは正反対の現象である。

 アメリカでは、プライベートな事柄と公的な事柄は峻別されていて、社内外の関係から結婚式、葬式に出席をすることはあり得ない。冠婚葬祭は個人の出来事 と割り切っている。取引先がらみのゴルフも最小限に抑えている。ゴルフは個人的な楽しみであり、企業取引親密化の手段とは見ていない。

 米企業では、日本企業と違って、社内外のコミュニケーションにITが幅広く取り入れられている。複数の人が電話回線で同時に会話するコンファレンスコー ルは当たり前だし、パワーポイントで資料を作成してウェブに掲載し、これを見ながらコンファレンスコールを行うことも多い。進んだ企業ではビデオコンファ レンスも取り入れている。電子媒体で作られた資料が、再び紙に落とされることは無い。こうした努力を積み重ねて時間を捻出しているのである。

 意思決定方法の違いも影響している。米国ではトップダウンが多いのに対し、日本ではまだボトムアップが多い。大企業になればなるほどボトムアップであ る。「下」が情報を収集して実質的な意思決定を行い、「上」がそれを承認する日本経営の古典的図式である。「下」はウェブの発達によって収集できる情報量 と速さは飛躍的に高まった。「下」は世の中の動きを早く分かるようになったが、逆に、「上」は情報不足に陥った。知らず知らずのうちに「情報下克上」が生 まれてしまった。

 「下」は言う。「今から、対応策を取って置かないと大変なことになる」。これに対し、中間管理職は言う。「そんなことを言っても今すぐには出来ない。社 長はじめ周りの人全ての理解を得ることが必要なのだ。今期の予算だってついていない。顧客だってどういう反応を示すか分からない。それより君、今期の目標 達成は大丈夫かね」。このようにして情報が「上」に上がらなくなり、問題の先送りが起こる。

 世の中の変化が遅い場合はまだ救われた。しかし、今は違う。製品のライフサイクルは益々短くなり、競争状況は刻一刻と変わる。迅速な意思決定をしないと 立ち行かなくなる。競争状況の変化に応じて機敏に組織を変えていかないと、必要なところに経営資源が回らなくなる。こうした状況が何年も続くと、戦力は疲 弊し、組織全体に諦めムードが漂いだす。

 時間的余裕が無い経営トップ。分かっちゃいるけど動けない中間層。正論を吐いても却下される下々。どの階層をとっても幸福な人はいない。会社の中に亀裂 が生まれ、企業としての一体感が損なわれる。ITが全員共有の形で採用され、社内での地位に関係なく一様に利用されているなら、こういう状況の発生を最小 限に食い止めることが出来るのではないだろうか。

 シリコンバレーで迅速に意思決定をする米国企業に接し、胸のすくような思いを味わった日本企業の当地駐在員。これに対し、いつまで経っても決断を下せな い日本の親会社に失望した駐在員。自社の運営に疑問をもっている社員に帰国命令が出ると、苦渋の選択を強いられることになる。

 トップダウン経営で、ITが万遍なく普及している米企業でも、意思決定の間違いは起こる。96年12月、マイクロソフト社長(当時)のビル・ゲイツは、 ネットスケープのブラウザ市場での快進撃を見てこう語った。「私はウェブを過小評価すると言う大きな間違いをしてしまった。社員諸君、今からでも遅くな い、弊社製品のウェブ対応を早急に進めて欲しい」。そしてインターネット・エクスプローラの猛烈な巻き返しが始まり、ネットスケープを駆逐した。

 しかし、ボトムアップ経営で、ITが歪な形で定着している日本ではもっと深刻な状況が生まれることがある。2002年、日本のある大企業のトップはこう語った。「私はこんなに忙しく働いている。社員諸君、弊社の業績があがらないのは君たちが働いていないからだ」。

(NIKKEI NET「海外トレンド」 2003年9月22日掲載記事より転載)

安藤茂彌氏

東京大学法学部卒業後、三菱銀行に入行。MIT経営学大学院修士。三菱銀行横浜支店長を歴任。1996年に東京三菱銀行を退職、シリコンバレーにわたり、米国ハイテク・ベンチャー情報を、インターネット上で日本語で提供するサービス
http://www.ventureaccess.com
)を運営。日米両国において、講演、コンサルティング・サービス等も活発に行っている。



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