万能細胞が引き起こす社会の変化

トランス・パシフィック・ベンチャーズ(Trans Pacific Ventures LLC)
President & CEO
 安藤 茂彌氏 (Shigeya Ando)


京都大学の山中伸弥教授が万能細胞を発見したとの記事が出た。ヒトの皮膚細胞に4種類の遺伝子 を組み込み培養するといろいろな臓器になるという。ヒトの幹細胞を使えば臓器を再生することは可能だが、ヒトに成長する可能性のある胚細胞を使って最終的 は死滅させることに生命倫理の観点から強い疑問が投げかけられてきた。また、幹細胞でできた臓器を他人に移植すると必ず拒絶反応が出る。自分の細胞を使っ た万能細胞であればこうした問題をクリアできる。

これは確かにすごい発見である。アメリカでも大きく報道された。同教授が京都大学の教授であると同時に7月からカリフォルニア大学サンフランシスコ校の付 属研究機関グラッドストーン研究所の治験医師であることも付け加えられた。この発表と同じ日に、ウィスコンシン大学のジェイムス・トムソン教授も似た研究 成果を発表している。この発見を日本だけ独り占めにしないよう釘をさした格好だ。

万能細胞を使えば再生医療は大きく前進する。この技術が医療現場に普及すると、臓器系の疾患はすべて移植で治療できてしまう。心臓疾患を持って生まれた幼 児に適用すれば、健康な若者として明るい将来が開ける。従来、完治が難しかった脊髄損傷のような神経系の治療もできるようになる。

年配者に適用すれば、機能が停止・低下した臓器を交換して延命できる。山中教授の予想では、先進国の平均寿命は10-30歳延び、2050年ごろに生まれ る人間の平均寿命は120-150歳に達するという。日本人は世界一の長寿国である。日本人の平均余命は男78歳、女85歳である。たった50年間に平均 寿命は、男は28年、女は31年も延びた。それが更に大幅に延びるというのだ。

だが、問題がある。地球全体で見ても人口は爆発的に増加している。地球の人口は65億人(2000年)である。1945年には23億人だったのでこの55 年間で3倍に増えたことになる。世界の人口は更に増え続け2025年には80億人、2050年には91億人に達するという。この数字は万能細胞発見以前の 数字である。地球は更に大きな人口を支えられるのだろうか。

地球温暖化問題がこれに大きくかかわってくる。温室効果ガス(そのうち80%は二酸化炭素)の大量排出国は先進国である。世界の温室効果ガスの33%は北 米(うち米国が30%)が排出している。続いてヨーロッパが28%と続く。日本は4%弱と相対的に少ない。だが、先進国合計のシェアを見ると65%に達す る。世界の温暖化ガスの2/3は先進国(除く中国・インド)から出ている。

今回の万能細胞発見の恩恵を受けるのは間違いなく先進国である。医療の進んだ先進国はこの治療を受けて更に寿命を延ばしていく。人口の増える先進国が地球 温暖化対策を講じないと、地球はますます住みににくくなっていく。更に大きな人口を抱える中国・インドが先進国入りしてくると更に状況は悪化する。温暖化 対策は喫緊の課題なのである。

食糧は地球全体としてみると、今後50年間は人口の増加があっても賄えると言われている。新型肥料の開発や種子の遺伝子組み換えが農業の生産性を引き上げ るからである。問題はむしろ水である。温暖化で降水量の地理的分布に大きな変化が起きている。ある地域では旱魃が起こり、砂漠化が進展しているのと平行し て、別の地域では洪水が頻繁に起こっている。今後、水の確保を巡って国際紛争が発生しても不思議ではない。

日本は2005年から既に人口減少社会に入っている。2025年までに1200万人が減少する見込みだが、万能細胞の発見でこのスピードは緩やかなものに なろう。ひょっとすると人口増加に転じるかもしれない。だが、ここで深刻な問題が発生する。高齢者が長生きすることにより、日本全体に占める高齢者人口の 比率が更に上がることである。

2005年に、65歳以上の高齢者一人に対する生産年齢人口は4人であったが、2025年には2人になると見込まれる。すなわち、現在4人の労働力で1人 の高齢者を支えているのが、2025年には2人の労働者で1人の高齢者を支えなければならなくなる。高齢者が更に長生きすれば、1人の労働者で1人の労働 者を支えなければならない。こんな社会は不可能である。

年金は完全にパンクする。給付開始年齢をいくら引き上げてももはや対応できない事態に陥るだろう。65歳に引き上げてもまだ足りない。70歳に引き上げてもまだ足りない。長寿化が更に進めば75歳ぐらいで何とかバランスする事態が起きるかもしれない。

給付額もどんどん絞られていくだろう。現職時給料の半分を維持することはもはや困難になる。年金で優雅な老後を楽しめると思ったら、とんでもないことになりかねない。予想外の長生きの結果、貯蓄も食いつぶして、生活保護に駆け込む老人は増えてくるだろう。

自分の納めた年金だから支払ってもらうのは当然といった考え方は、もはや許されない時が来るのではないか。年金の給付は社会保障費的な色彩を強めた制度に 変容していくのではないだろうか。老後の生活に困らない人は既得権を放棄して、真に生活できない人に回すことが求められよう。

他方で、万能細胞で若々しい体を取り戻して労働市場に戻ってくる人も増えてくるだろう。万能細胞はアルツハイマー、糖尿病、心臓疾患の治療に威力を発揮す るはずである。医薬では克服できなかった病気の多くが、体内臓器を一新することで健康体に戻れるようになる。万能細胞を使って元気になったお年寄りが、年 齢に関係なく活躍できる日が来るだろう。60歳を過ぎても、70歳を過ぎても働いて収入を得ようとする人口が増えれば、年金問題はずいぶん楽になるのでは ないだろうか。

たった数年前には労働力過剰と言われてきた。そのため、団塊の世代の多くが早期退職した。それが今では深刻な労働力不足になってきている。硬直的な定年制 度は形骸化する運命にある。長寿化は60歳台、70歳台の退職者に再び雇用の場を提供するように社会が変わらなければならない。

万能細胞は女性の出産可能年齢の引き上げにも貢献するのだろうか。筆者は、今回発見に関する日米の解説記事をいくつか読んでみたが、卵巣と子宮を一新でき ると書いてあるものは一本もなかった。今後の研究の中で、倫理的な問題を含みながら、いずれ明らかになってくるに違いない。もしこれが可能になると、仕事 に追われて出産年齢を越してしまった女性に朗報となるだろう。そうなれば日本の少子化進行にも歯止めがかかることになろう。

今回の発見のすごさは再生医療の技術的な進歩だけに留まるものではない。大幅な寿命の延長は、環境問題、年金問題、少子化問題、更には個々人の人生設計といったさまざまな問題に大きな変化をもたらす。

人間はなかなか死ねなくなった。人間はなかなか引退できなくなった。これで人間は幸せになるのだろうか。若いときに描いていた人生設計図は通用しなくなっ た。大家族同居はますます少なくなり、祖父母の世代のような幸せな老後生活は送れなくなった。老人の孤独死はますます増えよう。こんな「死に方」が若い頃 の人生設計図にあったろうか。

万能細胞発見を契機に、人間の「幸福の条件」をもう一度見直してみるべきではないだろうか。

(ベンチャーアクセス「シリコンバレーコラム」2007年12月より転載)


安藤 茂彌氏 (Shigeya Ando)


東京大学法学部卒業後、三菱銀行に入行。MIT経営学大学院修士。三菱銀行横浜支店長を歴任。1996年に東京三菱銀行を退職、シリコンバレーにわたり、米国ハイテク・ベンチャー情報を、インターネット上で日本語で提供するサービス:ベンチャーアクセスを運営。日米両国において、講演、コンサルティング・サービス等も活発に行っている。



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