ポールソンがゴリ押しした規制緩和が、米投資銀行の自己崩壊を招いた

トランス・パシフィック・ベンチャーズ(Trans Pacific Ventures LLC)
President & CEO
 安藤 茂彌氏 (Shigeya Ando)

  筆者が三菱銀行(当時)のトレーニーとしてモルガン・スタンレーに派遣されたのは、1979年だった。モルガン・スタンレーは、日本の商業銀行が仰ぎ見る、米国屈指の名門投資銀行として名声を集めていた。あれから29年。10月には三菱UFJファイナンシャル・グループが約9000億円を投じてモルガン・スタンレーの救済に乗り出した。いまや時代は大きく変わった。

 この1ヵ月間に、リーマン・ブラザーズは倒産し、メリルリンチはバンク・オブ・アメリカに買収され、ベアー・スターンズはJPモルガン・チェース銀行に買収された。残る二社、ゴールドマン・サックスとモルガン・スタンレーは銀行持ち株会社を設立して、FRB(連邦準備理事会)の信用供与を受けられる銀行に変身した。これで大手の投資銀行はすべて消滅した。

 投資銀行という業種がなぜ消滅したのだろうか。モルガンの歴史を紐解くと1930年代の大恐慌に辿り着く。銀行に自由を許しすぎた大恐慌の教訓から銀行業務と証券業務に垣根を設けるグラススティーガル法が制定された。そして新法のもとでモルガン銀行は銀行業務の専業になることを決定した。当時モルガン銀行の幹部であったヘンリー・モルガンとハロルド・スタンレーは、モルガン銀行を退職して証券業務を行うモルガン・スタンレーを1935年に設立した。

 モルガン・スタンレーは、アメリカの大手企業の株式・社債の発行引き受け業務と、企業に財務面の助言を行うアドバイサリー業務を行い、少人数で事業を続けてきた。パートナーシップの形態をとり、銀行の収益は持ち分に応じてパートナー個人の所得として申告する仕組みとなっていた。業績がよければパートナーは高額な所得を手に入れられた。

 モルガン・スタンレーは70年代の初めまで、従業員数は100人前後の小さな会社だった。著名なビジネススクールを優秀な成績で卒業した毛並みの良いWASP(白人・アングロサクソン・プロテスタントの略)しか採用しなかった。

 筆者がトレーニーで派遣されたころには数百人の所帯に膨れ上がっていたが、増加人数の多くは株式・社債を顧客との間で売買するトレーダーであった。自己勘定で取引するディーラーはまだ少なかったように思う。そもそも投資銀行は金融機関から借金して資金調達しているので、資金コストは高く、借入枠は限られており、自己勘定で取引することは難しかったのである。

 当時はM&A(合併買収仲介業務)にも進出していたが、これも数十名の小さな部門であった。引き受け業務等の伝統的な投資銀行部門では社員は皆静かに仕事をしていたが、一旦トレーディング部門に足を踏み込むと罵声歓声が飛び交う戦場のような職場であったのを記憶している。モルガン・スタンレーは変身したのに、給与の高さは小さな所帯の伝統が残った。

その後、モルガン・スタンレーは1971年に東京に最初の海外駐在員事務所を開いたのを皮切りに、次々と海外拠点を開設していった。1986年には株式会社に改組し、ニューヨーク証券取引所に上場した。事業内容も資産運用部門、投資部門を急拡大し、現在の従業員数は48000人に達している。もはや当時の面影は全くない。




驚くべきは、負債/資本倍率の高さである。商業銀行には自己資本比率8%というグローバルな規制がある。そのために負債/資本倍率は12倍以内に収まる。実際に、アメリカの主要商業銀行では9.1倍から11.6倍の間に収まっている。唯一の例外はシティ・コープである。投資銀行部門を含んでいるので 18.2倍と高いが、それでも20倍は超えていない。

 投資銀行の負債/資本倍率の高さは異常である。もしSPC(資金調達のためのペーパーカンパニー)を使った簿外負債があれば、倍率は更に大きくなる。負債に占める短期負債の比率が57-72%と高いのも気にかかる。商業銀行では安定的な預金が負債の大部分を占めるが、投資銀行の短期負債は借入金である。これでは、いったん信用不安が発生すると、直ちに資金的に破綻する。こんなに脆弱な規制をどの監督機関が認めたのか。

 投資銀行の監督機関はSEC(証券取引委員会)である。SECは以前からNet Capital Ruleという規制を行い、負債は自己資本の12倍までとするよう指導してきた。だが、大手投資銀行5行は、この規制がある限り欧州系の投資銀行との競争に不利なるとの理由から、規制緩和を求めてきた。そのうえ、投資銀行自身の自主管理(Self-Regulation)を許可するように求めた。倍率の算定には各行独自のプログラムを使って慎重にリスク管理を行うことを条件とした。

 この規制緩和を業界の代表として強力に推し進めたのは、当時ゴールドマン・サックスの社長(1998年-2006年)であったポールソン現財務長官であった。

 SECの規制緩和検討会議は2004年4月28日にSECビルの地下会議室で開催され、一切の報道機関を締め出して行われた秘密会議の形をとった。規制緩和措置は自己資本50億ドル以上の投資銀行に限って認めることとし、SECの5人のコミッショナー全員一致の賛成で決定された。自主管理(Self-Regulation)を基本的に認めたことで、SECの規制は事実上骨抜きとなった。以降、SECが投資銀行に検査に入ることは一度もなかった。

この緩和措置で自己資本の最高40倍の負債を持てるようになったといわれる。こうして創出された借り入れ余力を生かして、投資銀行は住宅ローンを証券化したデリバティブ商品やクレジットリスクスワップといった金融商品に投資し、大きな収益を上げていった。

 このような常軌を逸した規制緩和がなぜ可能だったのであろうか。レッセフェール(自由放任主義)を標榜するブッシュ政権下では、「規制は悪、規制なしが当然」という雰囲気が支配しており、企業に有利な法改正をするのが堂々と行われてきたという。SECだけではない、EPA(環境保護庁)他の官庁でも規制を骨抜きにするような改正が堂々と行われてきたと報道機関は指摘している。

問題はこれからの対応方法である。銀行に衣替えしてFRBの規制のもとに入ることになったゴールドマン・サックスとモルガン・スタンレーは、高い負債資本比率を下げていかなければならない。これには最長5年間の経過措置が認められている。すなわち、5年間かけて現在の30倍を12倍に下げていかなければならないことになる。

 12倍にするには、積み上げた資産を圧縮するか、自己資本を増強するしかない。両社はこれから商業銀行の買収を通じて自己資本の増強を図っていくとしているが、買収先の商業銀行にも不良債権化した住宅ローンがあろう。これを償却しながら自己資本の増強をするのは容易ではなかろう。

 急激な資産圧縮は経済に甚大な影響を及ぼす。積み上げたポートフォリオの中には原油価格の先高を見越してポジションを取っているものもあろう。取引をリバースすれば原油価格を長期にわたって下押ししてゆくだろう。不動産価格や株価の下押しは言うに及ばず、多くの商品相場が下落してデフレ圧力がかかり、景気の低迷は長期化するだろう。

 米国には金融監督官庁が3つある。投資銀行を監督するSEC、商業銀行を監督するFRB、そして徴税と予算の執行を監督する財務省である。歴代の財務長官が政治の前面に出てくることは稀だった。問題の性格からすればSECのコックス議長が前面に出てくるのが自然である。ポールソン財務長官が前面に出てくるのはむしろ場違いとも言える。しかしコックス議長はまったく主導的な役割を果たしていない。なぜか?

 2005年8月にSEC議長に就任したコックス氏にしてみれば、「ポールソン氏こそが、SECにゴリ押して異常な規制緩和を飲ませた張本人ではないか」との気持ちが強いのではないだろうか。ポールソン財務長官もその辺の事情が分かっているので、率先して自分の蒔いた種を一生懸命に拾おうとしているのではないだろうか。

 いずれにしても1930年代の大恐慌で誕生した投資銀行という業種は、今年3月から9月の間にあっけなく自己崩壊してしまった。70余年の短い歴史であった。眼先の利益を優先して実力以上のリスクをとった金融機関が自滅していくのを歴史は繰り返し見てきた。破綻処理の過程でいろいろなスキャンダルが発覚し、刑事問題にまで発展するのも世の常であった。歴史は繰り返す。人間は過去の歴史から何も学んでいないのである。

(ベンチャーアクセス「シリコンバレーコラム」2008年10月より転載)
 

安藤 茂彌氏 (Shigeya Ando)


東京大学法学部卒業後、三菱銀行に入行。MIT経営学大学院修士。三菱銀行横浜支店長を歴任。1996年に東京三菱銀行を退職、シリコンバレーにわたり、米国ハイテク・ベンチャー情報を、インターネット上で日本語で提供するサービス:ベンチャーアクセスを運営。日米両国において、講演、コンサルティング・サービス等も活発に行っている。


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