アメリカ人が得たもの失ったもの

トランス・パシフィック・ベンチャーズ社社長 安藤茂彌氏


イ ラク戦争が終わりアメリカ人の生活は平静を取り戻してきている。兵士も空母も戻ってきた。ブッシュ大統領は、次の課題である経済問題とイスラエル問題の解 決に取り組んでいる。多くのアメリカ人にとってイラク戦争は過去のものとなりつつある。だが、イラクではフセイン政権崩落後の権力の空白によって生じた混 乱が続いている。

先日アメリカ東海岸の諸都市を訪問してシリコンバレーに立ち寄った友人が次のような話をしてくれた。「西海岸にいると政治の影響は余り感じないが、東海岸 では色濃く残っている。ブッシュ政権を批判するような発言をすると『非愛国者』 のレッテルを貼られてしまう。だから政治の話をするときには周りに盗み聴きされないようによく注意をしなければならない」と面談をしたアメリカ人は話した と言う。

この国では一昨年「愛国者法」(Patriot Act)と呼ばれる法律が出来た。9月11日の同時多発テロ事件の発生から1カ月半の超スピードで成立した法律である。正式の名称は、Providing Appropriate Tools Required to Intercept and Obstruct Terrorismであるが、その頭文字をとってPatriotに語呂合わせをしたものである。その目的とするところは、テロ行為を遮断し防止するために 連邦政府に必要な手段を行使することを認める法律である。これに基づきFBIは、裁判所から包括許可を得て、一般市民に対し電話の盗聴、電子メールの傍受 等をできるようになった。

この法律によって一旦ブラックリストに載せられてしまうと、様々な不利益を蒙ることになる。アメリカ人であるからといって安心できない。刑事罰のみならず 国籍も剥奪されてしまう。日本で昭和16年に施行された「治安維持法」に優るとも劣らない厳しさである。言論の自由を標榜するこの国では、「愛国者法」は 憲法違反であるとの意見も根強い。こうした意見に配慮して、この法律の多くの部分は一応4年間の時限立法になっているものの、延長される可能性も高い。

ブッシュ大統領は同時多発テロの発生直後、ホワイトハウス内に国土安全保障担当オフィスを設置したが、今年1月にこれを国土安全保障省 (Department of Homeland Security)に格上げした。同省はそれまで22の政府機関に分散していた国境警備、空港警備、非常事態管理等の機能を統合して発足したもので、テロ 予防対策の強化、テロ発生時の迅速な指揮権発動を行ない、「愛国者法」を実効あるものにする為に万全の体制を敷くことにした。

ではイラク戦争の勝利によってアメリカ人はどう変わったのだろうか。ニューヨークタイムズが報じた世論調査によると、軍隊への信頼がかつてないほど高まっ ていると言う。1975年に米軍を信頼すると回答した比率は58%であったが、今は79%に大幅に上昇している。一方で、信頼度を下げたのは、議会 (40%から29%へ)と宗教団体(68%から 45%へ)である。米軍への信頼は、米軍の最高司令官でもあるブッシュ大統領への信頼と置き換えても良い。

ハーバード大学の政治調査機関が、大学生を対象に行なった調査でも同様の結果が出ている。75%の学生が軍隊への信頼を表明している。75年当時にこの数字は20%であった。

勿論75年と現在とでは状況が大きく変化している。75年は米軍がベトナム戦争で惨めに敗退し、反戦気分が充満していた時期であったのに対し、現在の米軍 は 91年の第一次イラク戦争、アフガン戦争、そして今回のイラク戦争を圧倒的な力で勝ち抜き自信を深めている。この層はベビーブーマーの子供の世代に当た り、親の世代が負け戦で苦労したのに対し、勝ち戦しか知らない世代である。

アメリカ人が自信を深めているもうひとつの側面がある。米国政府が気に入らない他国の政権を容易に打倒できるという自信を持ち始めたことである。しかも ヨーロッパや国連が如何に反対しようとも無視できる先例を作ってしまった。ベトナム戦争では、自分の気に入った政権を大量の兵力投入にも拘らず擁護するこ とが出来なかったのに較べると格段の相違である。最近は「もしフセインやアルカイダを匿っているとしたら重大な結果を招く」と脅すだけで、イラク周辺国は 米国政府に対し恭順の意を表するようになった。

アメリカ人に植え付けられた自信は、意向に沿わない他国政権を変更させる安易な発言を生んでいる。最近サウジアラビアで起きたアメリカ人居住区を狙ったテ ロ事件の後、「サウジ王室がテロ防止に本気で取り組まないならば、王室政治を変えさせるべきではないか」「イラン政府が核保有をしつづけ、アルカイダを匿 い続けるならば政権交代をさせるべきではないか」といった議論がテレビ討論会でポンポン飛び出してくる。

こうした政治面での自信とは裏腹に、アメリカ市民の行動範囲は大きな制約を受けている。米国人ビジネスマンが中東に自由に出向くことは命がけの出張になっ ている。中東だけではない、欧州においてもアメリカ人と名乗れないのでカナダ人と偽るアメリカ人が増えてきているとCNNの欧州特派員は報告している。イ ラク戦争を強行したことが尾を引き、いまだに反米意識が強いからである。

かつては大手を振って世界を闊歩してきたアメリカ人が縮こまりだした。世界の人と交わるのではなく、アメリカ人との間で交わることに安心感を見出している ようである。世界を単独で旅するよりは、クルーズのような団体旅行を好み、気取ったフランス料理の代わりにハンバーグとステーキを腹一杯食べて、アメリカ 人を称える歌を歌い、同胞意識を心ゆくまで楽しむ内向きな娯楽が受けている。

シリコンバレーのような西海岸の都市郊外では、国が戦争をしようがテロが起きようが自分達の身に危険が及ぶことはないだろうと考えている人が圧倒的に多 い。確かに政治の中心地ではないし、東海岸からは飛行機で5時間もかかる遠隔地にある。だから戦争の実感、テロの実感がなかなか伝わってこないのである。 それでも飛行機による旅行は極力避けるようになっている。この地においても縮こまり現象は起きている。

しかしこんなことが続いて良いのだろうか。アメリカ以外の国を知らないアメリカ人が増えてくる。「愛国者法」の影響で自分の頭で考えずに政府の言うことを 鵜呑みにする層が増えてくる。自分達の価値観を相対化してみることが出来ない若い層が、今後この国の中核を担ってくる。今まで以上にアメリカ独自の価値観 で世界が振り回されることが多くなりそうな気配である。

米国政府に真正面から反発できない諸外国政府は面従腹背を続けるだろうが、自分達が不当に不利益を受けていると考える層は政府の意向を無視して益々テロ行 為を活発化させるだろう。米国政府が発表するテロ警報は戦争終結後も、橙(上から2番目)と黄色(上から3番目)を行ったり来たりしている。イラク戦争は 終わり一見平静に戻ったように見えるが、アメリカ人の心の中ではまだ戦争状態が続いている。過去のものになったのはイラク戦争ではない。2001年9月 11日以前の自由で開かれたアメリカなのだ。


(NIKKEI NET「海外トレンド」 2003年6月2日掲載記事より転載)

安藤茂彌氏

東京大学法学部卒業後、三菱銀行に入行。MIT経営学大学院修士。三菱銀行横浜支店長を歴任。1996年に東京三菱銀行を退職、シリコンバレーにわたり、米国ハイテク・ベンチャー情報を、インターネット上で日本語で提供するサービス
http://www.ventureaccess.com
)を運営。日米両国において、講演、コンサルティング・サービス等も活発に行っている。



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